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あかりの家自閉症療育のキーワード集抄(11)
- #32 分かりやすさ・伝えやすさ
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①日課で伝える
Lさんの帰省時間が10時から15時へと変更になった。「いつ帰るの?」「15時」。表情は分かっているようであったが、違うと感じた。「じゃあ、朝ご飯を食べたら、その後は?」と聞き直すと、「帰ります」。やっぱり伝わっていない。
そこで、日課で説明をし直す。「朝ご飯食べて、作業して、昼ご飯食べて、作業して、帰る」 復唱もできる。「じゃあ、朝ご飯食べたら?その後は?」「作業します」
②服装を変える
相談で関わっているS君。特別支援学校から作業所の実習の面接に制服で行く。学校へ行くと勘違いして作業所の玄関でパニック。実習当日も、学校の体操服で行ってパニック。
お母さんに、「可能であるなら、カバンも服も、全部違う物で実習に行ってください」とお願いする。その後はパニックなく実習を終えた。
「勘違いした」のではなくて、「勘違いさせた」と解釈する。
③「まだ分からない」は分からない!
Nさんに、カレンダーを使って予定を伝える。
「外出は、いつにしようかなぁ」「25日!」「いや、勤務表が出来ていないから、10日まで待って!」ずっと不機嫌。
そこで、「外出は、27日にします」「分かりました」。機嫌良。
本当は27日必ず実現できるかどうか分からない。しかし、未定のまま過ごすより、一旦決めておいて後で変更した方が、Nさんの場合うまくいくと判断した。
④終わりの時間を伝える
ショート利用のA君。母親に急用事が出来て、彼を置いて外出しなければならなくなった。
母親が懸命に、何度も説明した。本人も「ウン、ウン」うなずく。しかし、パニック。そこで、母親に、終りを伝えることをアドバイスした。
そこで、「外出するけど、19時に戻ってきます。」と、終わりの時間を伝えたら、全くパニックなし。キチンと留守番できた。
⑤具体的に、視覚的に
新人のFさん、ショートC君と何もない広間で運動を始めようとしている。「まず最初に座って挨拶をします。」「座ってね」「座って!」と促しても座らない。
そこに、先輩職員のHさんが登場。ポンと座布団を1枚置いて、「ここに、座ろう」。すぐに座る。
⑥「ちがうチガウ」「そうソウ」
Yさんは、途切れ途切れ、力を入れてオシッコを出す。「力を抜いて~」と伝えるが、伝わらない。お尻を手で触ると、途切れ途切れに、お尻がキュッと動く。
そこで、動いたら「ちがうチガウ」、止まったら「そうソウ」と教えた。そうして動かさないことに気付いてくれた。その後数回の練習で、身についた。
それからは、キレイな放物線でオシッコが出る。
⑦見通しを立てる
Wさんは、毎朝起きた時、夜勤明けの職員に「ヤー、ヤー」と作業着を着るのか、普段着を着るのか確認していた。これでは、見通しの無いままの生活を強いることになる。それは苦しい。無用の混乱を引き起こすし、自立も妨げられる。
そこで、次の日の見通しを立てるために、次の日が作業なら作業着を、帰省日には象徴的にカバンと普段着を、寝る前に用意することにした。
そうしてから、起床後、夜勤明けの職員に確認せずに自分で着替えられるようになり、勘違いの“無駄パニック”はなくなった。
- #123 どーんと構えて、微細な動きをしっかり感知して、主導権を握る
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Kさんのお母さんが亡くなった。
母親との別れをお願いし、園長を含め3人で家族葬に参列した。
長時間座り続ける中で、頻回なトイレ要求や失禁、ツバつけ、強い足の踏みならしも想定されたので、必要に応じて式場から離れる心積もりをして参列することにした。
2日前、服の購入時、“お母さんが死んだ”ことを伝えた。
当日着替えの時、「死んだ」・「バイバイ」・「居ない」など、本人が理解できそうな言葉を探し、伝えていった。
普段の外出であれば、うれしそうに着替えるが、しかし、当日は神妙な面持ちのまま、40分ほど車に乗り、告別式へ向かった。
何よりも、こちらペースを作ることに集中した。
会場到着してすぐ、本人のトイレ要求前に、トイレへ誘った。
刺激を最小限にするため、開始までの15分間、周りが空席の一番後方に着席して待った。
その間、目線、指先、足先に注目した。
耳元でささやくようにシンプルな声かけをして、余計な動きが出ないよう集中した。
非常に落ち着いていたため、開式直前、前方へ移動、園長と私の間に座る。
読経が始まり、高音の打楽器が鳴ると指先が動き始め、小さな声が漏れ出す。
うつ向き気味の姿勢を維持し、耳元で声をかけ、微妙な動きが分かるよう私の身体の一部を本人の身体に当てた。
30分ほどして突然オナラが出て落ち着きがなくなる。
すぐ私の身体を軽く寄せ、本人への意識を強めた。
読経が終わると同時に自ら立ち上がり、予想通りトイレを要求してきた。
トイレから会場に戻る際は一歩一歩ゆっくり歩いた。
一緒に手添えで焼香し、棺に花を一緒に入れ、最後に棺を一緒に持たせてもらった。
いつもと違う神妙な面持ちで、予想以上に落ち着いて振舞った1時間の参列であった。
彼の動きを予測し、多動的な動きをしなくて済む応援が成功した。
彼を知っている親族なら想像もできないくらい落ち着いた姿を親族へ見せることが出来た。
だから私自身気持ちよく葬儀場を後にした。
- #211 「またよくなってから会おうね」一地域から施設へ施設から地域ヘー
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相談を受けていたFさん。
パニックになると、物を投げたり、お母さんを叩く。
過食で体重は増加の一途。
閉じこもりで、部屋から8日間出ない事もあった。
一方、母親は、パニックになったらどうしよう、物音で目が覚めたらどうしようと眠れない日々が続き、体調を崩した。
そんな時、D施設に空がでた。藁をもつかむ思いで入所を決断。
「お互い、またよくなってから会おうね」と、母親は約束をし、3年の有期限で入所を開始。
3年間の “しなくてもすむ”施設生活は、まさにFさんがつけていた鎧を1枚ずつ外す作業になっていった。
その頃母親は、「あの子を見捨ててしまった」といった罪悪感から、手が痛み、食事がのどを通らなくなった。
それでも、母親は“あの言葉”を何度も自分に言い聞かせ、3年間を乗り超えようとした。
そして退所3か月前。母親は、「お互いよくなったからまた一緒に暮らそうね」と本人に伝えた。
約束を果たした母親もまた、不安という鎧を1枚とった。
退所から2年、今でもパニックはあるが、通所先を休むことはない。
時には鼻歌も出るらしい。
とは言え、在宅生活は決して平坦なものではない。
母親は「まだ不安はあります。でもみんなが支えてくれていますから負けません。」と笑顔で答えられるようになった。
今では、Fさんの通所の合間を縫って、パートの仕事に出かけている。